こんにちは。

長女のもえです。今回お送りするのは隠岐圏域の中でも島前(どうぜん)と呼ばれる3島の中の1島、海士町(あまちょう)の後鳥羽上皇行在所跡(ごとばじょうこうあんざいしょあと)と御火葬塚(ごかそうづか)をご紹介します。

歴史の教科書では後鳥羽院と後醍醐天皇の遠流の島(おんるのしま)という印象が強いかと思います。島流しというとネガティブなイメージを持つかと思いますが、律令制のもとで遠流の島となった背景には、都からの距離や出入りが制限された離島という条件だけでなく、生活に困らない豊かな生産力と成熟した文化があったためではないかという推測があるようです。

後鳥羽上皇は藤原清房、施楽院和気長成、藤原能茂、西の御方など数名の近臣を連れ、海士町の源福寺に到着しました。源福寺は寺伝によれば天平年中(729~748)聖武天皇の勅願によって創建されたという古刹で、行在所はこのお寺に急造されました。

上皇は延応元年(1239)60歳で亡くなるまでの19年間、ひたすら都への想いにこがれながら、悲愁の生活を送りました。

上皇は念仏と和歌に精進することによって、配流生活の苦しみから脱却しようとしたそうです。上皇は在島中に『遠島御百首』など数多くの歌集や歌論を著しました。

上皇のご遺体は源福寺の裏の勝田山で荼毘に付され、源福寺の北部岡陵に遺灰、遺骨を埋葬し、廟殿が建てられた。この山稜は現在御火葬塚と呼ばれています。遺骨の一部は近臣の藤原能茂によって都へ持ち帰られ京都、大原の法華堂に納められた。御火葬塚は源福寺の住職と、上皇の身辺の世話をした土地の豪族、村上氏によってまもられてきましたが、江戸時代には荒廃の状態の時もあったそうです。松平直政が修繕し、新たに宮を造って祭典を起こしました。

源福寺は明治2年<1869)廃仏毀釈で消失したが、跡に杉が植えられ、今ではうっそうたる杉木立となりました。寺跡の近くにわずかに残る池のほとりには、上皇の歌碑が立てられています。中でも、切なく感じながらも風流を感じた歌をご紹介します。

 蛙鳴く 刈田の池の 夕だたみ

 聞かましものは 松風の音

松風の音にも、都からのよい知らせをひたすら待っている、という意のようですが、この歌が詠まれてからは上皇の悲しみを知ってか、蛙の声や松風の音はしなくなったと伝えられているそうです。

後鳥羽上皇を祭神とした、隠岐神社は昭和14(1939)年、没後700年に際して火葬塚に隣接して造営されました。社殿は隠岐造りとなっており、参道の両側には桜並木が続き、桜の名所としても知られています。

私たちが訪れた7月11日は、「夏越(なごし)の祓」の期間中であり、本殿前に茅の輪が備え付けられていました。

「夏越の祓」とは備え付けた茅の輪(ちのわ)を8の字にくぐって、1年の前半の穢れを祓うというものです。恥ずかしながらも、この「夏越の祓」を知らなかったので今回初めて体験し、勉強になりました。

隠岐の島町、海士町と訪れてみて、隠岐は古いもの(形ある・なし関わらず)を地域で大切に守り、残していく取組がしっかりできている地域だと感じました。 隠岐に住む方々は、郷土愛が深い方が多いという印象を個人的に持っていますが、誇りある伝統行事、歴史、自然があるからこそなんだと実感しました。今後も変わらず、そこにあってほしい風景がある地域です。

「御火葬塚」の拡大写真

「歌碑」の拡大写真

「夏越の祓」の拡大写真

「隠岐神社」の拡大写真