ある雪の日のまち歩き ~起点は松江駅~
2017年02月03日
今回は、"松江駅から歩いてまちを巡ってみよう!"ということで訪れた、3つの場所をご紹介します。
この日は大雪の直後。
道には雪!雪!!雪!!!でしたが、松江で雪が降り積もるのは年に2~3回あるかないかです。せっかくの機会なので、松江の雪景色をお届けしたいと思います!
まずは、松江駅から西へ!
JR山陰本線の高架下を歩くこと約800m。天神町。
"天神さん"で知られる『白潟天満宮』は、学問の神、菅原道真公を祀る神社。
この時期には多くの受験生がお詣りに訪れる天神さん。(因みに私もその昔、お世話になりました。)
この天満宮は、元々は平安時代に平清景が月山富田城(現在の安来市広瀬町)を築城する際に城内に建立し、鎮守として長く祀られていましたが、今から約400年前、堀尾吉晴公が松江城を築城したときに、城とともにこの地に移されたという歴史があるそうです。
その後、歴代松江藩主からの崇敬を受け、松江の庶民からも親しまれてきました。
拝殿の横、雪の中に春の足音が・・・。道真公が愛した花、梅の花も咲いていましたよ。
装飾にも梅の花。
社殿そのものの立派さ、美しさももちろんですが、広々とした境内は綺麗に手入れされていて、気持ち良い。
冬のキリッと澄んだ空気の中、清々しくお詣りができました。
それから、境内には、"天神様と言えば"、の牛の像。
稲荷神社。少し個性的な御姿の神狐様...
厳島神社は、松江藩主松平治郷(不昧)公お抱えの名工、小林如泥の作。間近に見ることができます。
この日も、境内で遊ぶ親子の姿がありました。
気軽にふらっと立ち寄ることができる、広く開かれた優しい雰囲気のある神社。
天神さんは、松江の重要な歴史を残しつつ、地元の人たちに今も身近な、親しみ深いところでした。
学問の神様にお参りをしたら...次に行くのは雑賀町(さいかまち)。
雑賀町と言えば、第25代・28代の内閣総理大臣を務めた若槻礼次郎、そして、日本近代スポーツの父、岸清一の出身地。その他多くの偉人を輩出した"教育の町"として知られる地域です。
天神さんから南へ約850m。
『洞光寺(とうこうじ)』もまた、松江城築城の折に広瀬からこの地に移されたお寺。元は戦国大名の尼子経久が、尼子氏の菩提寺として富田城下に創建したのが始まりとのことです。
洞光寺
灯籠に尼子家の家紋(四つ目結)を見つけました。
菩提寺としての洞光寺は、松平直政公の時代に広瀬藩内に再建されますが、寺院はこの地にも残されたそうです。
雑賀町は"教育の町"と書きましたが、この洞光寺はそれを象徴する場所。明治6年に松江最初の小学校が置かれたところでもあります。雑賀町小学校の前身。若槻・岸両氏もここの卒業生です。
なぜ、雑賀町に学問が栄えたのでしょう?
松江藩の時代、雑賀町は下級武士足軽の町。藩校で学ぶことはできなかったはずでは・・・?
雑賀町の"雑賀"は、戦国最強と言われた鉄砲傭兵集団、紀州の雑賀衆がルーツと言われています。堀尾吉晴公が、松江城の築城にあたり西の防衛の要として雑賀衆を迎え入れ、住まわせたのがこの地域だったのだそうです。
特殊な戦術を教え継ぐため、人を育てるという土壌が、ここには強くあったからでしょうか。
時代が変わり戦の必要がなくなっても、雑賀町の人々は向上心をもって勉学に励み、下級武士でありながらも出世を成し遂げた人もあったと聞きます。
雑賀町には明治維新の頃には20を超す寺小屋や私塾があったそうですが、それらを一つにまとめて、松江最初の小学校が、この洞光寺に開校しました。
雑賀小学校には今も「雑賀魂」という言葉が受け継がれているそうです。
"学問に打ち込んで身を立て、何らかの道で日本一になり、世のためになれ"
教育を大事にし、雑賀魂に象徴される、自立と不屈の精神を育てた場所。
襟を正して、手を合わせました。
ここは小泉八雲が愛した寺でもあります。
松江の朝を告げる音として八雲の作品にも登場する、境内の鐘。鐘のあるところからは、雑賀の家並みが見えていました。
洞光寺の鐘
教育の町、雑賀町の洞光寺。
雪のため隅々まで見ることができず残念でしたが、今度は雪のないときにゆっくり訪れてみたいところです。
最後に訪れたのは、栄町の『圓成寺(円成寺)』。
洞光寺から宍道湖方向へ約500m。
圓成寺は、堀尾家三代目の菩提寺。
移城の際に吉晴公が菩提寺を富田城下から移し瑞応寺として建立しましたが、京極氏の代に圓成寺とされたそうです。
ここも広瀬から移ってきたお寺だったとは!
今回訪れた3ヵ所は、松江駅から歩いて行ける名所ということで選んだのですが、こんな共通点が出てくるなんて...面白いですね。
門には堀尾家の家紋(分銅紋)が。堀尾家の紋は、その他境内の随所にありました。
分銅紋(圓成寺)
圓成寺の門
それにしても、雪・・・。
繰り返しになりますが、松江で雪が降り積もるのは年に2~3回あるかないかです。いつもこんなに雪が積もっているわけではありません。
雪かきに出られていた住職さんが声をかけてくださり、庭園や本堂を見学させていただきました。
雪化粧をした書院庭園。裏山の借景が見事でした。この裏山は、小泉八雲が散策を楽しんだ場所なのだそうです。
来待石の灯籠に六地蔵をもつ「六角地蔵灯籠」。
慶長9年(1604年)の記年銘は、来待石の灯籠としては山陰最古とのこと。松江市の文化財に指定されています。
御本堂。雪がよりそう感じさせるのか、静けさの中、ゆっくりとお参りさせていただきました。
やはり、所々に堀尾家の様々な家紋を見ることができました。
写真の中にも...分かりますか?
ここ圓成寺は、堀尾家三代の菩提所。堀尾家ゆかりの遺物も多数所蔵されているそうです。
再び外へ出て、本堂に向かって左脇を進み、堀尾家三代目忠晴公の墓所へと向かいます。
忠晴公は、堀尾家最後の藩主にして二代目の松江藩主。
初代松江藩主忠氏公は、松江城の城地を選定した後に築城を待たずお亡くなりになったため、忠晴公は、謂わば松江城の最初の城主ということになるでしょうか。
忠晴公には嗣子がなかったため堀尾家は三代で断然し、その後は京極・松平家の治世となります。
松江の礎を築いた武将は、静かに眠っておられました。
松江藩主堀尾忠晴墓所
堀尾家の一代目、吉晴公の墓所は、富田城下(安来市広瀬町「巌倉寺」境内)にあります。
豊臣三中老の一人であり、松江開府の祖と称される吉晴公。松江移城を決めた直後に息子である忠氏公が急死したため、幼い忠晴公の後見となり、松江城と城下町の基礎をおつくりになりました。
圓成寺では毎年11月6日、吉晴公の命日に合わせて法要を行った後、広瀬町の墓所に参拝する習わしがあるそうです。
二代目忠氏公の墓所は、かつて富田城近くにあった忠光寺に建てられたとする説が有力のようですが、まだ特定はされていないとのこと。玉造温泉の報恩寺とする説もあるようです。
いつか巡ってみたいと思います。
稲荷社の鳥居(圓成寺)
稲荷社(圓成寺)
稲荷社(圓成寺)
墓所のある場所から更に上へ行くと、稲荷社がありました。
ここからは、まわりの建物の合間に宍道湖と、湖中に浮かぶ嫁ヶ島が見えます。
見晴らしが良いとは言えないのですが、僅かに見える湖面が輝いて、尊いものを垣間見ているような美しさを見つけました。
稲荷社(圓成寺)からの眺め
かつての圓成寺山は、宍道湖に突き出た岬だったそうで、戦後に埋め立てが進み現在の形になっています。当時はもっと見晴らしが良く、綺麗な風景が見えたのでしょうか。
それでも、このときに見た景色は、私にとってはとても美しく、特別なもののように感じられました。歩きまわった末に味わう景色だったからでしょうか。写真では感じ取れない空気や光や自分だけの感覚を、見つけに行っていただけたらと思います。
今回のまち歩き。訪れた場所が、月山富田城から松江城へと移されたという共通点で繋がるとは・・・じわじわと後を引くような、驚きと、面白さ...。
歩いてみたからこそ、松江の歴史への興味も湧いてきました。
古くから残る町並みや、土地の歴史。ゆっくりと味わいながら、歩いてみませんか?
雪道を歩きまわったおかげで、数日筋肉痛の、しまねまちナビ一行・・・
まち歩き、おすすめです。みなさんは、まずは雪のない日から、どうぞ!!
白潟天満宮稲荷神社の神狐様
洞光寺入口
圓成寺稲荷社から見る圓成寺