
岸静江に胸が熱い
2025年01月24日
岸静江に胸が熱い
新緑の眩しい5月。
訪れた浜田城跡で、木漏れ日の良い感じに降り注ぐ石碑が目に留まりました。
「浜田藩追懐の碑」。
中央の石碑に歴史小説家、司馬遼太郎による「浜田城」と題した“石見”についての言葉が刻まれています。
この碑文を読んでいたところ、お散歩中だという地元の女性に声をかけられました。
「石見にはなにもないけれど、石見人としての誇りはあるっていうことが書いてあるんですよ。これは当時の市長さんが縁を辿って司馬先生に書いていただいた文章で、司馬先生はこの文章を書くにあたって、お金は絶対に受け取りませんとおっしゃったらしいですよ」
そんな地元で伝わるお話を教えてくれました。
「浜田城にはお城もなにもないけれど、本丸からの景色はとてもすてきだから、ぜひ見て行って」そう言って、にこにことお散歩に戻られました。
石碑に戻ります。
浜田藩追懐の碑「浜田城」
“石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。”
剛毅と質朴。誇り。
なんとなく、先ほどのご婦人は石見人だったなと思いました。
さて、向かって左側。「名鑑」。
浜田城築城以降の政治、経済・産業、学術・文化、その他の4部門について業績のあった75名の名前があります。
このうち「政治」欄、「石州口の戦い」。
「討死」の文字が並ぶ中、一人だけ「関門死守」と記されている人物がいることに気づきました。
ちょっと違和感。
前置きが長くなりましたが、今回の取材は、この違和感から始まりました。
討死ではなく、あえて「関門死守」と刻まれた人物。
ドラマの気配がします。
― 石州口の戦 ―
岸 静江國治 関門死守
浜田城跡本丸からの風景
* * *
今年の夏は長かった。残暑を引きずりつつ、10月。
再び石見へと向かいます。
岸 静江國治(きし しずえくにはる)が死守したという関門跡へ。
益田市多田町(ただちょう)。扇原関門跡(おうぎはらかんもんあと)。
岸静江國治(以降、静江)の最期の舞台。
道路沿いにある「扇原関門跡」の看板から入り、歴史の道百選に選ばれている「山陰道扇原関門跡」を行きます。
すぐに気になる立て看板を発見。
関守岸静江国治からの「この先は人馬しか通れません」のお知らせ。
歴史ジョーク効いてる~
車両は入れないとのことなので、ここから歩いて240m。
トンネルを抜けると急に静かな林道に。
途中からは道の舗装もなくなり、かつての道という雰囲気。
そろそろかなと少し不安になる頃、石垣の遺構を発見。
その先すぐに、大きめの2本の木に挟まれるように、石碑が現れました。
「岸静江戦死之地」
この場所で、司馬遼太郎の言葉を借りれば「近代日本の夜明け」へと向かう、戦いの火ぶたが切られました。
* * * *
ここで閑話。
静江の最期についてご紹介し、共に胸を熱くしていただくために、簡単ざっくりさっぱりと周辺情報を説明させてください。よくご存じの方は読み飛ばしていただければ。
江戸時代の終わり。
大雑把にいうと、現在の島根県西部に当たる石見国には、浜田藩、津和野藩、そして天領と呼ばれる江戸幕府直轄地がありました。
時代は倒幕派と佐幕派の混沌とした幕末。坂本龍馬の活躍で有名な薩長同盟が結ばれた頃。
幕府を倒そうという倒幕運動の中心にあったのが長州藩で、今の山口県です。
一方、最後の浜田藩主となった松平武聡(たけあきら)は最後の江戸幕府将軍となった徳川慶喜の弟ですから、当然佐幕派です。(この時点での将軍は家茂)
そう、倒幕派長州藩と佐幕派浜田藩、めっちゃ近い。
幕府は自らを倒さんとする長州藩を当然やっつけようとするため、戦争が起こります。
結果は歴史のとおり、幕府は倒され明治維新へと繋がっていきます。
その幕府崩壊へと向かう最終的な戦いが、第二次幕長戦争です。
長州藩サイドからは四境戦争とも言い、長州藩を取り囲む四つの境である芸州口、大島口、石州口、小倉口で戦いがありました。
このうち石州口(せきしゅうぐち)が浜田藩側の境です。
閑話休題。
* * * *
1866(慶応2)年、第二次幕長戦争。
後に日本陸軍の創始者となる兵学の天才、参謀大村益次郎が指揮を執る長州軍は、上京のため東へと進んで行きます。お隣の津和野藩、そして浜田藩へ。
津和野藩は戦わずの姿勢をとったため、長州軍はそのまま浜田藩へと進軍。
津和野藩と浜田藩の藩境である今の「扇原関門」に難なくたどり着きます。
これより南は津和野藩領
浜田藩は先述のとおり、藩主が幕府と近いこともあり津和野藩の様に知らぬ顔はできません。
長州軍も戦闘を覚悟して進みます。
これより北は浜田藩領
この時、関門を守っていた浜田藩士が、静江でした。
静江は今の群馬県館林市で松平右近将監家臣の家に生まれました。生後半年で国替えとなり、祖父や父など家族と共に浜田藩へ引っ越しています。
1997(平成9)年に浜田市立世界こども美術館で開催された「浜田のたからものー浜田の武士・岸静江―」の展示解説書として、浜田市教育委員会がまとめた『岸静江とその時代 激動の幕末と浜田藩』では、静江の人柄についても詳細に紹介されています。
静江は幼い頃から文武両道の優秀な人物で、浜田藩校道学館で朱子学を学び、国学や和歌にも熱心でした。
当時は藩が優秀な若者を江戸に遊学させる文化があり、静江も江戸で学び、成績優秀ということで藩主から表彰を受けています。槍の名手としても有名に。
また、静江は家の使用人にも勉強をすすめ、刀を与えるなど、人柄も素晴らしかったと伝えられています。
強く、賢く、優しい。素晴らしい人物像。
元服して、結婚。
その後、1860(安政7)年に浜田藩に就職。
4ヶ月で近習席に抜擢。役所でいうと秘書課配属といったところでしょうか。
1866(慶応2)年には家督を継ぎ、藩では物頭に出世。もう役所でいう課長です。
人物に見合ったスピード出世。絵に描いたような順風満帆な歩みに見えます。
しかし、物頭となった静江はすぐに運命の扇原関門に責任者として赴任。
それから一月足らずで長州軍が現れたのです。
扇原関門跡周辺
6月16日朝、長州軍接近の報を受け、静江は配下の武士5人と付近の臨時農民兵合わせて約20人で臨戦態勢に入りました。
正午には長州軍の使者が関門に到着。京都に意見しに行くためにここを通過したいこと、浜田城下は通らないことを伝え、開門を要求しました。長州軍としても浜田藩との戦闘は避けたいという意味です。
これに対し静江は、「公命をもってこの関門を守るもの」と毅然として要求を拒絶。
この時、一説には約800人とも言われる長州軍が押し寄せていました。
交渉決裂により戦闘開始。
多勢に無勢のなか、静江は死ぬのは自分一人でよいと他の兵を全員退避させます。
このとき、共に戦いたいといった部下もいたとか。
扇原関門の岸静江図『濱田会誌』第三號(画像提供:浜田市教育委員会)
ただ独り。
十字長槍を手にして関門に立ち塞がる静江。
至近距離からの銃弾により、絶命。
昭和53年発行の『益田市誌(下巻)』が描写する静江の最期は、次のようなものでした。
銃弾を一身に受け、すでに絶命していたにもかかわらず、その十字長槍を支えに仁王立ちしたままとなっていた静江。まるで生きているようで、敵兵も恐れを抱いてしばし進軍を躊躇したほど。その壮絶な最期の姿には誰もが感嘆するしかありませんでした。享年31歳。
関門を突破した長州軍は浜田藩内数カ所で激しい戦闘を繰り広げました。
これにより浜田藩は自ら城に火を放ち、自焼退城。藩主は退去し、もう浜田藩主として戻ることはできませんでした。
これが石州口の戦い。浜田藩終焉の戦いです。
終焉へと向かったのは浜田藩だけではありませんでした。
勢いに乗った長州軍の進撃は続き、最終的には講和が結ばれ休戦という形にはなったものの、事実上江戸幕府は大敗。第二次幕長戦争が江戸幕府終焉の始まりとなったのです。
つまり、扇原関門跡とは石見全体が動いた一番最初の戦いがあった場所であり、江戸幕府崩壊に向けての最終的な戦いの始まりの場所でもあります。
まさに歴史が動いた場所。
静江が守らんと立った関門は、歴史の転換点でした。
* * *
静江の死後のお話です。
藩命を遵守するため、静江はたった一人で敵の前に立ちはだかり散って逝きました。
その壮絶な最期の姿には敵である長州軍までも感嘆したといい、参謀大村益次郎は静江の遺体を丁重に葬り、その上に碑を建てるよう指示したと伝わります。
関門のある多田村の人たちも静江の死を惜しみ手厚く葬ったといい、この地に墓石を立てています。
関門跡の入口から道を挟んで反対側にある静江の墓
地元のお酒などが供えられている
村の庄屋は静江の遺体から籠手をはずし、長州軍の手が届かないよう山中に埋めて隠し、明治時代に入ってから掘り起こしたものを岸家に届けました。
明治2年には、静江の義勇に対して番頭席への昇給がなされています。
最後の浜田藩主松平武聡の子である武修(たけなか)は、静江の最期に感涙し、関門でのできごとを調査して『浜田会誌』に発表するほか、浮世絵師の高橋松亭にその様子を描かせるなどしています。
届けられた「岸静江籠手」(画像提供:浜田市教育委員会)
静江は、地元の人たちからはその人柄を慕われ、敵からは勇敢さを称えられ、今も「武士の鑑」として語り伝えられている存在です。
司馬遼太郎による、大村益次郎の生涯を描いた小説『花神』でも、石州口の戦いの中でその勇姿が描かれています。
『花神』を読んだとき、静江のキャラクターに「ラストサムライ」という印象を受けました。
武士の時代が終わっていく混沌の中で、武士らしい最期を全うした一人が静江だったのでしょう。
岸静江の墓がある曹洞宗紅蓮山観音寺(浜田市内)
観音寺にある静江の墓
静江の最期は、仁王立ちのまま息絶えたとか、銃撃に崩れ落ちたとか、長州軍は500人だったとか、2,000人だったとか様々に描かれています。
でもそれは些細なことで、一人の浜田藩士が命をかけて関門を、使命を、誇りを守ろうと戦った。
このドラマに胸が熱くなります。
命より大事なものを守ることに美があった、「武士の時代」のドラマです。
今、扇原関門跡に立つ。かつて、静江が立った場所に。
歴史が動いたこの場所で、静江は歴史を動かしてはいないでしょう。
でも、そのときにも、そのずっと後の時代にも、静江のドラマは確かに人の心を動かしています。
― 石州口の戦 ―
岸 静江國治 関門死守
【参考資料】
浜田市教育委員会(1997)『岸静江とその時代 激動の幕末と浜田藩』
浜田市教育委員会(1992)『ふるさとを築いたひとびとー浜田藩追懐の碑人物伝―』
浜田市教育委員会(2004)『松平右近将監家とその家臣:浜田市郷土資料館開館20周年記念特別展』
藤岡大拙監修(2018)『島根県の合戦』株式会社いき出版
浜田市浜田城資料館(2022)『浜田城とその城下』
司馬遼太郎(2002)『花神』新潮社
島根県観光連盟「扇原関門跡(岸静江戦死の地)」しまね観光ナビ.https://www.kankou-shimane.com/destination/47012(参照2025.1.17)
【取材協力Special Thanks】
浜田市教育委員会 文化振興課