「楽器の王様」とも呼ばれる、ピアノ。
出会い方はそれぞれにしろ、小学校入学時点でほとんどの人がピアノに出会っている。

 

あなたが通っていた小学校のピアノを思い出せるだろうか。

もしかしたら、何かステキなエピソードをもっていたり、歴史的に価値あるものだったりするのかもしれない。
誰かの思いがつまっていたり、壮絶な物語が刻まれていたりするのかもしれない。

ピアノが奏でる地域の記憶と人のつながりに耳を傾けてみたい。

 

大火ピアノ ~ピアノが奏でる地域の記憶~

 

三成町並み1三成の町並み

 

奥出雲町に、「大火(たいか)ピアノ」と呼ばれる、大火事を逃れた奇跡のピアノがあるという話を聞いて取材にやってきた。

かつて小学校は木造建築が普通だったこともあり、火事で校舎が燃え落ち、講堂や体育館にあったピアノが危うく難を逃れたというエピソードはいくつか聞いたことがある。

旧奥出雲町立三成小学校のピアノもそうしたピアノの一つと思いきや、歴史はさらに壮絶だった。

カルチャープラザカルチャープラザ仁多

三成小学校が閉校する、ひとつきほど前。
2026(令和8)年2月27日。

大火ピアノのある「カルチャープラザ仁多」(仁多郡奥出雲町三成)は、三成中央公民館と町民体育館と連なる施設になっている。
入口が複数あり、中はやや複雑に連結しているため、目的のピアノを目指して迷いながら進んでいると、ピアノの音と歌声が聴こえてきた。

 

そこに、グランドピアノがあった。

 

演奏者右:立石さん、左:落合さん

ピアノを弾く立石純子さんは、三成小学校の元教諭で、音楽を教えていた。
その伴奏に合わせて歌う落合由美子さんも元音楽教諭で、三成小学校の卒業生でもある。

取材のために、ピアノの演奏をしにお越しいただいた。

そして、元気な挨拶の声と共に、子どもたちが集まってくる。
三成小学校の3年生、22人。

三成小学校は小学校の再編のため、2026年3月末に閉校する。
町内6校が統合し、春からは仁多小学校が開校することが決まっている。

これに伴う校舎の建て替えにより学校の体育館が使えないため、三成小の子どもたちは町民体育館に体育の授業を受けに来ているということだったので、大火ピアノのミニ演奏会にお誘いしたところ、ギャラリーとして集まってくれた。

はじめに、引率の先生がピアノについて問いかける。
「このピアノ、何ピアノって言いますか?」

子ども達は口を揃えて応える。
「大火ピアノ!」

 子ども達

 

子ども達に囲まれて、柔らかい音色を響かせる。

これが「三成小学校の大火ピアノ」である。

 

成小鍵盤の左側に三成小の愛称「成小」の文字が入れられている

1945(昭和20)年4月18日(水)。
終戦近づくも戦時下、三成の町は未曾有の大火に焼き尽くされた。

1996(平成8)年3月発行の『仁多町誌』から以下引用する。

 

『当時の状況を『島根県警察史』から抄出すると次のとおりである。昭和二十年四月十八日午後零時一五分ごろ、三成町大字三成村の某女が自宅裏出入り口に火付けして置いていた七輪の火が隣家に飛び火して出火、南西の強風にあおられ三成町全域を焼き尽くすとともに、隣村布施村の山林にも飛び火するといった大火が発生した。

 同大火の被害は、出火後わずか三時間にして、三成町中心地全戸及び連担地の矢谷、里田、石原、湯の原部落の一部建物を焼失したもので、一般住家四一三戸、官公署及び公共用建物一一棟、学校二棟、会社工場八棟、附属建物四七棟の計四八一戸(棟)を全焼した。その主なものは三成警察署、三成町役場、三成郵便局、三成土木管区事務所、三成国民学校などで、ほとんどの官公署及び公共用建物は灰となったのである。山林被害の方は三成町分三五〇町歩、布施村分二〇町歩であった。被災者は一七六六人に上ったが、幸い昼火事のため、死者はなく負傷者五人ですんだ。』

 

三成の町はまさに火の海となり、481戸が全焼。
三成小学校も焼失している。

三成小の職員と子ども達には一人の事故もなかったというのが不幸中の幸いだが、校舎は全て焼き尽くされ、搬出して焼け残ったものは一部の重要書類と、ただ一台のピアノだったという。

大火の一因となった大風が吹きすさぶ中、炎の迫る校舎からピアノを助け出したのはほんの5名ほどの教員と地域の人たちだった。

ピアノ2

三成大火の悲劇を忘れないため、三成小学校では毎年大火のあった4月18日付近で火災避難訓練が続けられている。

訓練時には、大火に関する講話の中で、必ず大火ピアノについても語り継がれている。
このピアノはまさに、歴史の証言者といった存在だろう。

戦時中の遠い昔の物語が、ピアノという目の前にあって触れられる存在に接することで、ぐんと身近な事実になる。

 

三成の人たちはかつての大火を聞き伝えて知っている。
体験者もいれば、家族から聞いたという人もいる。そして、小学校で大火ピアノを通して語り継がれている。
だから三成の人たちは、三成大火も、大火ピアノの存在も、その柔らかな音色も、みんなが知っている。

ピアノ3

 

この日の小さな演奏会では、3曲が演奏された。

・「三成小学校 校歌」
・「浜辺の歌」
・「星に願いを」

取材に訪れた私は、初めて聴く校歌を耳にしながら、もしかしたら、三成小学校在校生が合唱する三成小学校校歌の伴奏をこのピアノが奏でる、最後の場面に立ち会ってるのかもしれないと考えていた。
そこにどこかノスタルジックな胸のぎゅっとする感じを覚えたことを忘れないでいたい。

子ども達2

ピアノを弾いてくださった立石さんは、音楽の先生として数多くのピアノに触れてきた。この大火ピアノの音にどんな印象を持っているかうかがうと、「やわらかい響き」があるという。

この地域で生まれ育った落合さんは、大火ピアノを「かけがえのない存在。当時の先生方がこのピアノを助け出した思いを考えると、より強く大切にしたいと思う」と話してくれた。

 

お話をうかがっていたとき、偶然通りかかった男性とピアノの話になった。

すると、男性は三成町にある善勝寺というお寺の方で池田さんと言い、池田さんのお父さんが善勝寺の住職をされていた際、三成小学校の教員としても勤務されていたという。
そしてなんと、大火ピアノを校舎から助け出した一人だったらしい。

ただ、善勝寺もまた大火により焼失していたこともあり、父親はこの出来事を語りたがらず、ピアノのエピソードについても後々他の人から聞いたそうだ。

大火を逃れたピアノは、焼失後に再建された三成小学校の体育館に戻された。

三成小学校三成小学校にあった頃の大火ピアノ(提供:三成小学校)

火の手を逃れ、田んぼの方へ運び出される際に脚が1本折れたというが、白い木で応急処置され、その白い脚も後にきれいに修理されているため、今ではどれがその折れた脚かも分からない。

1981年までは第一線で活躍し、その後も大切に保存されてきた。

2022年には三成小にピアニストを招いて大火ピアノの演奏会を開き、子どもたちがその演奏に聴き入った。

ピアノコンサート板東沙耶香さんコンサート(提供:三成小学校)

三成小学校の閉校が決まってからは、学校に隣接するカルチャープラザ仁多に居場所を移された。
学校で保存されている時分には、手を触れてはならないものとされていたが、カルチャープラザでは、誰もが自由に弾くことのできるピアノになった。

ピアノ4カルチャープラザに置かれた大火ピアノ

施設を管理する三成中央公民館の郷原喜美子館長によれば、高校生が学校帰りに弾きに来るなど、今も三成の財産として愛されているという。

ピアノ修理学校からカルチャープラザに移動させる際の修理の様子(提供:三成小学校)

 

今回の取材ではさらに、三成大火を幼い頃に体験したという方にお話を聞くことができた。
以下は、谷茶ヤシエさんにうかがったお話をまとめる。

 

ヤシエさんが5歳のとき、自宅の一軒先で火事があった。
両親は水を持って飛び出し、消火活動に参加したが火の勢いは増すばかり。
弟は祖母におぶわれ、ヤシエさんは勤労奉仕から帰ってきた姉と一緒に小学校へと避難することに。

三成小学校に着いてしばらく、火の手は学校にも及び、隣町へ逃げることになった。
そのとき、学校の先生たち数名がグランドピアノを運び出し、田んぼの方へ向かうところを目撃する。
田んぼの中に置かれた大きなピアノの姿は衝撃的で印象に残っている。

その日は強風で、火の手は次々とまちを飲み込んでいく。
姉妹は砂嵐の中、坂を上がって逃げ延び、祖母の実家へと身を寄せた。

三成大火であった。

翌年、6歳になったヤシエさんは三成小学校に入学する。
小学校で、あのグランドピアノに再会した。
大火を逃れる中で折れてしまったピアノの脚の1本は、白い木で代用されていた。
特殊な出会いを経たピアノの音色は特別きれいに聴こえた。
自分もピアノを習って弾けるようになりたいと憧れたが、その当時、ピアノは普通の家庭にはないものだった。

大人になり、結婚をし、子どもが生まれた。もし自分に娘が生まれたら、娘にはピアノを習わせてあげたいと、ずっと心に秘めていた。大きな買い物になったが、ピアノを買い、娘にピアノを習わせた。
娘は思っていたより早くピアノへの興味をなくし、大人になると家にピアノを残して嫁いでいった。

幼い日に、あのピアノに出会ってから、ヤシエさんにとってピアノはずっと特別だった。
ずっとずっと心にあったピアノを、75歳のとき、自ら習い始めることにした。

現在ヤシエさんは85歳、今もピアノを弾いている。

 

ピアノ1

 

三成小学校の大火ピアノは、このまちの特別なピアノだ。

 

あなたが通っていた小学校のピアノを思い出せるだろうか。

もしかしたら、何かステキなエピソードをもっていたり、歴史的に価値あるものだったりするのかもしれない。
誰かの思いがつまっていたり、壮絶な物語が刻まれていたりするのかもしれない。

 

けれど、多くのピアノは語り継がれる物語を持っていないだろう。

 

それでも、小学校のピアノに思いを馳せてみたい。


あなたがこの地域にずっと暮らしているのなら、そのピアノは兄弟や、お父さんお母さんや、おじいさんおばあさんと三世代に渡って同じ音を聴かせてきたピアノの可能性もある。
もしくは、あなたの子どもや孫もずっと同じ音を聴くことができるかもと思うと、少しロマンチックではないか。

入学式、卒業式、音楽会、地域の演奏会など、地域の人たちも小学校に関わるときにもその音を響かせてきたピアノ。
小学校が地域の人たちを繋ぐ場所だとしたら、そこに置かれたピアノはその人たちが共有してきた時間をつなぐものともいえるだろう。

 

今、ピアノが奏でる地域の記憶と人のつながりに耳を傾けてみたい。

 

ピアノの足

 

【参考資料】
仁多町誌編纂委員会編(1996)『仁多町誌』
山陰中央新報社編(1996)『心に残るあたたかい話』
奥出雲町立三成小学校(2025)「奥出雲町立三成小学校学校だより『あたごやま』令和7年度4月号」

【取材協力Special Thanks】
奥出雲町教育委員会 文化スポーツ振興課